本を読んだり、読まなかったり

これにて終了!

だんだん本業の方に気を取られるようになって、こちらのコーナーの更新が難しくなってしまいました。大英帝国のミュージックホールの次に読んだのは坂口安吾『堕落論』。安吾が嘆いていること、怒っていることが現在の日本とあまりに関係していて、感想をちゃんと書きたいと思いながらけっきく書けませんでした。それから『マラマッド短編集』を金沢で読みました。しんみりする話なのだけど、閉塞感も強くてわたしはちょっと苦手だった。あとは図書館のウェイティングの順番がやっとまわってきた岸本佐知子『なんらかの事情』、エッセイというよりは小説の風情でした。これで2013年は終わり。自分でもあきれるぐらい本が読めなかった1年でした。きっとこれからもしばらくはこの調子でしょう。

2003年から10年間も続けたのだからもうちょっとがんばろうと思っていたのですが、やっぱり無理かなぁと。残念ながらここでいったん終わることにします。また環境が変われば再開することもあるかもしれません。そのときはまた001から始めます。

2003年にこのブログを始めたのは、ちょっとした問題を抱えていてしんどかったから。読んだ本を数えていき記録することで気持ちを強く持とうとしていたと思います。それから10年たち、いろんなことが変わりました。これからもどんどん変化しそうで、人生ってわからないもんだなぁと思っています。

これまで読んでくださったみなさん、どうもありがとうございました。
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# by tummycat | 2013-12-31 16:35

698 井野瀬久美恵 『大英帝国はミュージックホールから』 朝日選書

だいぶ前に読んだ本。19世紀半ばから20世紀にかけてイギリスで大流行したミュージックホールの話。留学中の漱石も行ったし、エリートのイメージの強いT.S.エリオットもファンだったらしいし、当時のイギリスにおいて忘れてはいけない文化的現象だったようだ。男性だけでなく、家庭の主婦も子連れで行ける雰囲気だったというのが面白い。イギリスでは徐々に愛国的な雰囲気になっていくが、このミュージックホールがアイルランドにも輸入されて、そこではまたアイルランド的に愛国的歌が歌われるようになったらしい。こちらの方を詳しく知りたいけれど、なにか研究書はあるのかな。
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# by tummycat | 2013-11-15 10:00

697  中沢新一  『精霊の王』 講談社

9月以来の更新だ。もうこのコーナー、続けられないかも。本を読む時間がないし、読んでも書いている時間がない…。

と思いながらも、気を取り直して書くのである。先日の明治大学での講演で話題になっていた本。非常に面白いのだが、後半はあまりに宗教学的になってついていけなかった。

日本という国家が成立する前に日本中にあった「古層の神」の話だ。「宿神」「後戸の神」、でもある。シュクジ、シュクジン、シャグジ、ミシャグジなど。東京の「石神井」もそのひとつ。

芸能の神、特に猿楽の「翁」(能の曲目の中でも別格)はこの神なのだそう。この神の呼び名は日本中にあるが、「さ」と「く」の音を持つのが特徴で、これは境目を意味している。たとえば放浪の芸能者は定住せず、町のはじや崖の近くなどに住んでいた。それで彼らは「さ・く」のように呼ばれ、彼らの神はサク神になったのではないか。後ろ戸は、舞台の下、大きい農家の奥の間など。座敷童があらわれる。

国家神道の時代になってからはこの神は新しい神社の陰に追いやられてしまった。

折口信夫は「まれびと」と呼んだ。金春禅竹は能の「翁」は宿神だと考えた。また在原業平も宿神であったとのこと。

蹴鞠の話が面白かった。蹴鞠は鞠が地面に落ちないように蹴り続ける遊びだが、これは天と地の距離が離れすぎてしまって、宇宙のバランスが崩れてしまっているからだと考えた人々が、鞠を空中に蹴り上げる儀礼を行うことによって、天と地の間に媒介を挿入してバランスを取り戻したのだとのこと。蹴鞠の名人の前に、子供のような、猿のような、「鞠の精」があらわれる話がとても良かった。
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# by tummycat | 2013-11-07 15:29

696  関川夏央 『昭和三十年代演習』 岩波書店

むかーし読んだ『ソウルの練習問題』を思い出させる書名。(ソウルもあの頃から随分変わってるだろうなぁ。)

この本は昭和30年代を描いた小説や映画について論じているもの。語り口調で書かれていて、途中には編集者との対話も入る。読んでいて意味を取りづらいところもあって、もうちょっと丁寧に書直してほしかったという気がした。でも内容はたいへん面白い。昭和30年代というのはわたし自身の子供時代なので。

面白かった点を以下にメモ。

*昭和30年代は明るかったという記憶があるが、記憶は作られる。戦争が終わったあと、戦争前の時代をなつかしむはずなのに、それは自主規制された。

*よく登場する空き地(コンクリート管があったり、子供が遊んだ)は空襲の焼け跡の名残り。

*フォーク・クルセダーズの「イムジン河」のレコードが発売禁止になったのは、朝鮮総連(当時は暴力的な圧力団体だった)がこの曲は北朝鮮で作られたと主張し、国名や作詞作曲者を明記せよと迫ったから。レコード会社は面倒を避けて発売禁止とし、放送局も放送を自粛した。

*戦前の鉄道運輸は戦後よりはるかに国際的だった。東京発下関行の寝台特急は下関から関釜連絡線に接続し、朝鉄、満鉄、シベリア鉄道と連絡して、ベルリン、パリ、ロンドンと結んでいた。

*昭和30年代の子供たちは「世界再参加」を痛切に望んでいた。東京五輪を歓迎した。【ここがわからない。子供がそんな意識をするものだろうか。わたしはしなかったです】

*昭和38年11月23日、アメリカから史上初の衛星中継テレビ放送が行われる予定だった。テキサス州遊説中のケネディ大統領が宇宙中継で日本にメッセージを送ることになっていた。最初に出たのはボール紙にマジックで書かれたメッセージだった。「大統領が狙撃されて死亡した」とのこと。

*大ヒットした「愛と死をみつめて」の原作は、同志社の社会学科の女子学生と中央大学商学部の男子学生の往復書簡。女子学生が亡くなった翌月(!)に男子学生が手紙類を出版者に持ち込んだ。それを読むと、女子学生は母のように自分の死後の男子学生のことを心配し、励ましていた。この本が流行ったのは、単に難病ものだったからではなく、女性が中心、母親が優先という日本文化の本質的なものが出て来たからではないか。

*北朝鮮は一時は「地上の楽園」だと噂されて在日の人は喜んで帰国した。しかし行ってみたら食糧もなく着るものもなくて、大変な楽園だった。帰国者たちが日本にいる知合いに「こちらに来るな」と連絡したのだが、検閲があるので文面を工夫して知らせた。まもなく帰国希望者はいなくなった。
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# by tummycat | 2013-09-17 11:37

695  水村美苗 『本格小説』 新潮社

とにかく面白かった。読み始めたらやめられない。こんなに夢中で読んだのはディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』以来だ。どんな小説なのか知らないで読み始め、長い長い序文で、「なんかこの男、ヒースクリッフぽいなぁ…」と思っていたら、この小説は『嵐が丘』がモデルなんだって。

だけど、単純に『嵐が丘』の時代と舞台を現代の日本にしてみたというものではない。日本とアメリカの中間で青春期を過ごした作者の屈折や、日本文学に対する疑問や、戦後日本を描くという気合いで、結果として『嵐が丘』よりもずっと重厚な小説になっている。そのぶん、二人の恋愛の重さは相対的に軽くなってる気がするけど、それは仕方ないよね。でも、主役のよう子と太郎はキャサリンとヒースクリッフに十分似て造形されていて、その技術はすごいと思う。読んでいて、「ああ、これはあの場面!」「これはあのときの台詞!」と、『嵐が丘』ファンとしてはその都度思い出してワクワクする。元ネタの使い方がうまい。

『嵐が丘』そのままの筋にしようと思えばできたのに、作者はわざといくつかの大きい変更をしている。一番大きい違いは、母娘2代の話にせず、よう子と太郎の話だけで終えたこと。それから、ジェンダーを一部変えたこと。ヒンドリーの代わりに常さん、ヒースクリッフを拾ってきた祖父のかわりに祖母、という風に。これはイギリスと日本の違いから自然にそうなったのかとも思うが、他にも全体的に女系を強調しているので、作者には女性を描くという意図があるのだろう。それから非常に気になったのが、「3人」がたくさん出てくることだ。中心になる「よう子、太郎、富美」の3人をはじめ、「よう子、太郎、雅之」、「春絵、夏絵、冬絵」、いとこたちなど実に多い。3人にする必要がないところでも執拗に3人組を作っている。

この「3」は大事なポイントのような気がするのだが、どういう意図だったんだろう。『嵐が丘』ではキャサリンとヒースクリッフが絶対的カップルでエドガーは邪魔者だったのに、『本格小説』では雅之を含めた3人があり得ないような良い関係となっている。作者にとってひょっとしたらこういう三角関係が理想なのか。そうするとあちこちに散りばめられた「3人」もそのような肯定的な意味があるのか。「3」は昔から安定した、美しい数字だし。…と、まぁ読了直後のいまはそんな風に思うけれど、もうちょっと考えてみたい。

もうひとつ面白いのは、『本格小説』の方はあちこちにわざとらしい写真が挿入されていることだ。古い洋館とか、河とか、道路とか。どれも人間が写っておらず、対象を対象らしくはっきりと写しているのが特徴である。いわゆる雰囲気のある写真ではなく、「この対象を見せるのだ」という意志の感じられる写真。そして、その写真があることで余計に中身のフィクション性が強まる気がする。そういえば、序文に「東太郎は実名だ」と言ったり、作者自身の話をいかにも実話ぽく語ったりするのも、このわざとらしい写真に呼応するのかな。個人的には、最初の写真が出て来た時点で、「ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』みたい!」と思った。

戦後日本を描いたという点でもとても面白かった。自分が生まれた年(昭和31年)は「もう戦後ではない」と言われた年だったと知る。また、ひとむかし前の海外駐在員の世界のディテールもリアルだった。現地採用の日本人との微妙な差別感、たしかにあったよなぁ。

実をいうと、水村美苗はずっと苦手意識があって読もうと思わなかったのだ。以前彼女が著者近影で使っていた、小首を可愛らしくかしげた写真が嫌いだったから。でも最近の写真はわりといい感じで婆さん(ちょっとオニババ的雰囲気もある)になっているので好感が持てる。別のものも読んでみたい。
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# by tummycat | 2013-08-19 07:33