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本を読んだり、読まなかったり

640  村田喜代子 『雲南の妻』 講談社

出だしのエピソードが面白くて、ゾクゾクしてしまった。カンボジアの地雷を撤去するボランティアをしている男が、昔交通事故にあって生死の境をさまよったときに、長くてリアルな夢を見たというのだ。東南アジアの国で、妻と子供と一緒に暮らしているという夢。しかし生還したためにその夢の中の暮らしが中断してしまった、というのが話の枕である。

そのあとは主人公の女性が昔、夫と共に中国南部の雲南に駐在していた頃の話になる。中国茶の輸入をする夫との暮らし。通訳として雇った若い現地の女性と主人公が仲良くなり、やがて同性婚をする。その土地では同性婚は珍しくないのだという。しかし主人公が病気になったため、彼女の妻である現地女性を置いて帰国することになってしまう。

冒頭エピソードがあまりに好みだったので、それに比べて本編は面白みが減って感じられたが、それでも充分に楽しめた。中国茶の話や現地の風俗の描写が非常に詳しいが、作者はすべて資料で勉強したらしい。『蕨野行』といい、この人はそういうフィクションの作り方が得意なのだろう。

女性同志のつながりについては、ヘテロセクシャルであるわたしにはどうもピンと来ないところがあった。セジウィックなどレスビアンの女性研究者はよく「男性と違って、女性はホモ・ソーシャルとホモ・セクシャルの境目が曖昧で自然につながっていく」と主張するけれど、わたしはそうは思わないし、それはホモセクシャルな人の感じ方だと思う。で、この小説を読むと、二人の女性のホモ・ソーシャルな結びつき方は分かるのだけれど、ホモセクシャルな部分がよく分からない。ヘテロのようにはっきりと情熱的な結びつきでないところが茫洋として感じられる。ただ、同性婚に対比して描かれる夫との結婚生活はたしかにあまり魅力的でない。

これを読むと、『蕨野行』のおばあさんと若い嫁の精神的なつながりの中にもセクシャルな色合いがあったのかなぁとも思えてきた。あのやりとりを「相聞歌のよう」と思ったが、そもそも相聞歌とは恋人同士のやりとりなのだし。






# by tummycat | 2012-05-12 13:27

639  村田喜代子 『八つの小鍋:村田喜代子傑作短編集』 文春文庫

東北旅行で読んだ三冊め。途中まで読んだところで旅行は終わった。

最初の短編、バイク少年の話「熱愛」以外は全部が全部、女の話だ。女が見た女の話なのだ。小さな娘、結婚した女、そして奇妙な老婆たちなど、女ばかり登場する。白い便器がうずたかくつまれていて、それがいっせいに空に飛んでいく場面で終わる「百のトイレ」、あちこちの町で出会った老婆との話を綴る「白い山」、頑なでお婆さんらしくないお婆さんと孫たちが一緒に夏を過ごす「鍋の中」、クルマに飛び込んで自殺して家族にお金を残そうとする婆さんたちの話「望潮」など。

老婆を見る目が新鮮だ。「からだが『つ』の字に曲がっている」みたいにストレートに言う。童話ちっくなやさしいお婆さんや若者に都合のよい可愛いお婆さんなどなどひとりも登場せず、どの老婆も内側に自分を固く持っているのに、外に出そうとせずに不可解なままだ。

わたしが一番好きだったのは、「蟹女」。毎日ランチタイムになると医者の部屋を訪れ、昼ご飯を食べる医者に向かってとんでもない話をしていく女の患者の話。医者はカレーを食べていたり、チャンポンをすすったりしながら彼女の話を聞く。好きなだけ話をして彼女は、最後はいつも「子供たちが会いに来ますので失礼します」と出て行くのだ。彼女はたぶん精神病院の患者なんだけど、なんとも可笑しく、妙に引き込まれる語りぶりだ。いつか老婆になったらこんな作り話をわたしも誰かに話してみたいものだ。





# by tummycat | 2012-05-04 22:05

638  内田樹 『他者と死者:ラカンによるレヴィナス』 文春文庫

これも旅行中に読んだ本。よく分からないところが多かったのに、なぜか面白かった。半分以上は分かってないんだけど。とりあえず、印象に残った箇所を以下に書き抜き。

語るとは、それは他者を知ると同時に自らを他者に知らしめることである。他者は単に知られるだけでなく、挨拶される。(中略)文法用語を用いて言えば、他者は名格においてではなく、呼格において出現する。(これはレヴィナスの言葉)28

(長いので自分で書き換えた) AさんとBさんが対話する。Aさんが語っているとき、AさんはBさんが何を知らず何を知りたがっているのかわからないまま話している。BさんはAさんが何を知らず何を知りたがっているかわからないまま聴いている。でもそれは対話が進むのに問題にはならない。対話はAさんが語っていることをBさんは「それこそ自分が知りたかったこと」と誤解しながら進むものだ。そしてAさんが語り終わったとき、Bさんはそれをずっと聴きたかったと感じる、つまり自分の欲望を発見する。

また逆にBさんが話すとき、Aさんの表情を見ながら、「このことを知りたがってるのじゃないのかな」などと思い、軌道修正しながら話す。結果的に最初に話そうと思ったこととはだいぶずれたことを話している。ではその話を誰が語ったのか。それはAさんでもBさんでもなく、Bさんが相手の欲望だと思ったものの効果である。話すBさんはAさんの欲望について配慮しながら話す。聴くAさんはBさんの言葉の中に自分の欲望を発見する。この欲望には実体がない。それはどこか外から来たもの。

★だから真の意味での対話における登場人物は2人ではなく、3人だ。欲望は誰のものであれ、いつも第三者だ。対話とはこの第三者をうやうやしく呼び入れるためのもの。62,63

上と同じことを村上春樹は「作者の自分と読者の間に、第3者がいるといい。それをウナギと呼んでいる」と言ったとのこと。

★なぜあることを言うのに2人必要なのか。なぜ1人ではそのことを言えないのか。なぜならその一つのことを言う人間は常に他者だからだ。(ブランショーの言葉)66

「欲求」は郷愁、ホームシックだが、「欲望」は帰る先を知らない郷愁。70

師が靴を2回落し2回弟子に拾わせた話。他者の欲望に点火するもの。それは「謎」である。「謎」は殆ど同じ動作を2回繰り返すときに発生する。74

神とモーゼの会話。「私」と「私を名乗る他者」によってそれぞれ一度ずつ語られたときはじめて「神のことば」は地上に顕現する。91

愛は<他者>を志向する。愛は他者をその弱さにおいて志向する。(レヴィナス)
弱さは他者性そのものを形容している。219

☆死について。未熟の果実はかりに未熟のまま落果しても、植物としての死の瞬間まで、熟果としてのおのれの幻想的な消失点めざして成熟することを止めない。現存在にとっての死はこの「熟果の幻想」に似ている。250

逆走する時間意識について。私たちはこの二つの時間意識のはざまを揺れ動いている。どれほど公共的な被解釈性に落ちていても、わたしたちは死の切迫を完全に「ひとごと」にすることはできない。そして、私たちが、誰によっても代替不能のかけがえのない人間でありたい、わずかなりともこの世界に「善きこと」をし残して起きたいと願うとき、私たちは「死んだあとの私」の視点から「今ここ」の私を眺めるという操作をする。252







# by tummycat | 2012-04-28 20:59

637  夏目漱石 『道草』 新潮文庫

こないだの旅行で読んだ本。疾走する東北新幹線とのんびり走る各駅停車のローカル線で読んだ。途中の峠は吹雪だったなぁ。

いつだったか漱石好きの人たち数名に、一番好きな作品はと訊いたことがあって、たしか『道草』が一番人気だったように思う。(わたしは『坑夫』と答えた。『夢十夜』もいいな。そして『我輩は猫である』は別格。)そんなに人気のある『道草』なので期待して読み始めたのだが、最初から最後まで金銭と人間のくされ縁の話で、どうにも面白くない。(面白くないのだがすらすら読める。読みやすいのは漱石の特徴だ。新聞の連載小説だからね。)

最後までわたしは好きになれなかったが、とにかく最初と最後は良かった。最初とは主人公が縁を絶っていた養父と突然に遭遇する場面。ここの描写は不気味でたいへん迫力があって妙にフロイト的。それから最後は当面の問題が解決してほっとしている場面で、主人公は「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々に変るから他にも自分にも分からなくなるだけさ。」と妻に言うのである。この台詞は(なんだかわけがわからないものの)「なるほど!」と思わせるものがある。これもなんだかフロイト的だ。なんでフロイトなのかは訊かないで。

ということで、これで漱石の小説はとりあえず全部読んでしまったと思う。ちょっと寂しい。





# by tummycat | 2012-04-25 13:57

636  神谷美恵子 『いのちのよろこび』 日本図書センター

感想を書いていない本がたまってきた…。

「あれ、これはまだ読んでいない」と思ってクリックしたもの。『神谷美恵子コレクション』を読んでからしばらく時間がたった。久しぶりの神谷さんだ。この本はエッセイとか高校生との討論とか、医療関係の講演とか、いろんなものの盛り合わせ。

「老人と、人生を生きる意味」というのが特に良かった。寝たきりになり、ぼけてしまった老人にとって生きる意味とは何なのか、という問いに決してきれいにまとめたことを言わない。医師として自分が見たある老人の最期について、考え考え語っている。

亡くなってからもう何年にもなるが、いまの日本にこういう人がいてくれたらなぁ。相談に乗ってほしいと思うのは美智子皇后だけではないだろう。








# by tummycat | 2012-04-13 22:03

635 ジョージ・ヒューズ 『ハーンの轍の中で』 平石貴樹、玉井瞳訳 研究社

東京大学で英文学をおしえたイギリス人教授の本。前半は自身の回想。後半は明治の昔に同じく東大で英文学をおしえたラフカディオ・ハーンについて。ハーンを「おかかえ外人教師」の先輩として見ているのは新鮮。飜訳が直訳調なので、目の前で著者が英語で話しているのを聞くような、妙な臨場感があった。








# by tummycat | 2012-04-02 15:06

634  J. M. シング 『アラン島』 栩木伸明訳  みすず書房

予想以上にいい本だった。翻訳もよかった。もっとゆっくりと、繰返し読みたい本だ。(なのに時間がない…。)

パリで鬱々としていたシングはイェイツと出会い、彼から「アラン島へ行ってそこの人々を書け」とアドバイスされ、実行する。アラン島はアイルランドの西にあり、3つの島から成る、いわば西洋の果てにある島だ。岩だらけで樹もない土地で人々はゲール語を話し、素朴な暮らしを続けている。シングはダブリンとアラン島を行ったり来たりの生活をしながら、島の人々との交流を書いた。島人から聞いた話のいくつかは戯曲になっている。

読みながら、突然に『富士日記』みたいだと思った。東京からときどき富士山の別荘にやってきてそこの人たちとの交流を書いた武田百合子に似ている。富士山付近の人たちが話してくれたことをそのまま書つけようとするスタイルも似ている。

シングは内面はいろいろなものを抱えていた人だったが、島で過ごしている間は自分を出さず、島のことだけを描くように心がけている。昔話を語るのが得意な老人たち。何時間もかけてのんびり口論する女たち。都会から来たシングに強い好奇心を示す子供たち。海草を干して焼くケルプ焼き。死人の棺を埋めようにも土地が限られているので先祖の棺を出して、そこに新しい棺を埋める葬式。ゲール語を話す島民にゲール語を教えようとするゲール語普及協会のこと。淡々と語られるエピソード。

もちろんシングは都会から来る旅人にすぎないし、本人もよく承知している。旅人なのだから旅人として書くしかないのだ。だから彼の戯曲では主要な人物として旅人がよく登場する。

挿絵は詩人イェイツの弟で画家のジャック・イェイツ。この絵がたいへんいい。シンプルな線で描き、まわりを太い枠で囲んでいる。この枠は旅人シングのまなざしのフレームを表わしているように思った。







# by tummycat | 2012-03-22 20:51

633 J. M. シング 『海に騎りゆく者たち:シング戯曲集』 木下順二他訳  恒文社

シングは20世紀初頭のアイルランドの戯曲家である。いまの日本ではあまり名前を聞かないが、大正初頭の日本では、作家たちがこぞって取り上げて、なかなか人気があったようだ。芥川龍之介もシングが好きだった(ちょっと不思議)。わたしには大正期の日本の雰囲気がよく分からない(同時期のアイルランドの方がまだ想像しやすい)ので、シングのアイルランド劇の人気のわけがよく分からない。「父」に対する反抗がシングにはよく描かれるが、「父」であった明治の直後の日本も似た状況だったのだろうか。

この戯曲集はシングの代表作6篇が訳されていて、どの訳も読みやすく、また戯曲も予想以上に面白かった。登場する人間たちの性格がバラエティに富み、人間くさく、皆たしかに血が通って生きている。神話に題材を取った「哀しみのディアドラ」さえ、シングが書くと人間くさくなる。こういう芝居と比べたらイェイツの詩劇は一般庶民には魅力がなかったことだろう。同じアビイ劇場で上演されても、シングの方がずっと人気があったのである。

若い頃シングがパリでうろうろしていたとき、イェイツに出会い、「アラン島へ行け。そこで書け」と言われてそのとおりにしたのは有名な話。他人にそのようにコミットすることについての恐れや不安をあまり感じていなかったらしいイェイツという人がわたしにはちょっと不思議だ。













# by tummycat | 2012-03-16 09:44 | Trackback

632 菊池寛 『半自叙伝、無名作家の日記、他四篇』 岩波文庫

最近にわかに興味を覚えるようになった菊池寛。この本は彼の自伝である「半自叙伝」と、それから出世作の「無名作家の日記」、その他に短い随筆みたいな私小説みたいな「葬式に行かぬ訳」や、上田敏や芥川龍之介の思い出をつづった文章などが入っている。これらの組合わせが絶妙だ。

まず「半自叙伝」は文藝春秋に連載したもので、成功した作家兼実業家がこれまでの反省を振り返って書いたもので、まるで日経「私の履歴書」的にものすごく退屈な自伝だった。文章も雑だし、学費だの懸賞金の額だの細かいお金のことばかり書いてあって(よくこんなに覚えているものだ)、ところどころに子供時代の万引き体験や学校時代のトラブルなどが生気のない文章で入る。これで「菊池寛って、なんてつまらない男だろう!」とうんざりして、次の「無名作家の日記」を読むと、一転して面白くなるのだ。東大に対して京大の学生がいかにつまらないか、秀才の芥川に対して持っていたコンプレックス、自作を読んでくれない京大の指導教官(上田敏がモデル)への恨みなどなど、負のエピソードがたっぷりで飽きない。そして他の小品を読めば更に情報が追加され、菊池寛という人がより立体的に感じられるようになる。

思うに、この人は芸術家じゃなくて常識的な実業家なんである。京大の学生たちと遊郭に遊びに行っても、お金がないことが心配になり、途中でひとりこそこそと帰ってしまう。借金もしないし、恋愛もしないし、激情に走ることもないし、まるで普通の人なのである。こうなるとどうして彼がいくつかの<名作>を書くことができたのか、不思議に思えてくるのだ。ということで、今度はそれらの作品を読んでみようと思う。










# by tummycat | 2012-03-12 22:09 | Trackback

631 川上弘美 『神様』 中公文庫

初期の短編集を今ごろになって読む。これ、好きな人は好きだけど、「なに、これ」と眉をひそめる人もいるだろう。わたしは大好きだ。じわーっと、熱くて危ないものがオバサンごごろにしみる感じ。特に「夏休み」がすごく好きで、何度か読み返したがそのたびに泣いた。梨もぎのバイトをしているときに、白い毛のイキモノが3匹現われるんだけど、そのうち3匹目の言うことがいいの。「僕いろいろだめなの」「だって梨食べちゃうと梨なくなっちゃうのがだめなのよ」「僕が入っても僕が抜けてもその場所が変わっちゃうのがだめ。」

で、他の2匹はこいつのこと、ちょっとバカにしてるの。「こいつだめ」「なかなかだめ」と言って。この「なかなかだめ」も好きなのだ。クセになりそうでなかなかだめ。

あと人魚姫の話もいい。「星の光は昔の光」という題名もいい。





# by tummycat | 2012-03-08 07:22

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