本を読んだり、読まなかったり

538 ベケット 『名づけえぬもの』 安藤元雄訳 白水社

『ゴドーを待ちながら』は意外に楽しめた。でもあれは戯曲だったからだと思う。実際の上演を見たらもっと楽しめただろう。しかし、ベケットの小説は辛い。読むのは苦行だ。だらだらだらと登場人物がしゃべっている。言葉が垂れ流されている。やたらと暗い。ストーリーは特にない。だから本を閉じて、しばらくして再開しても、どこまで読んだか分からない。

そんな感じなのだが、ではベケットはつまらないかと訊かれたら、なんだかわからないが面白いと答えてしまいそうだ。

ベケットの戯曲や小説を読んで思うことは、人間が生きているというのは、二つのことから判断できるということ。ひとつは動くこと(動かないでいるのも含む)、もうひとつはしゃべることだ。しゃべるというのは決してモダニズムでいうところの「意識の流れ」的な高尚なものではない。もっと地味でもっと脳の奥の方から出てくるようなつぶやき。生きている人間の頭の中はそういうつぶやきがいっぱいだ。それが生きているということだ。

ベケットのそういう人物たちは頭の中からつぶやきを垂れ流しにしていて、それはその人の中身を外に出しているということでもある。「中身」であるのに、「外見」なのだ。つまり、ベケット作品って人間の中身が外に裏返っているのだ。これってアイルランド文学の特徴のひとつじゃないかと思う。


追記:
ベケットの人物のつぶやきはこんな感じ。

だがおれは、いつかある日、しゃべり続けのままで放免されるだろうという望みを捨てていない。その日にこそ、なぜだかわからないが、おれは口をぐぐみ、話を終えることができるだろう、わかってるんだ。... ここにとどまり、ここで終わるという希望が。終わるのは望ましい、終わるのはすてきだろう、おれがだれであろうと、どこにいようとも。 (29)

続けなくちゃいけない、だから続けよう、言葉をいわなくちゃいけない、言葉があるかぎりは言わなくちゃいけない、彼らがおれを見つけるまで、彼らがおれのことを言い出すまで、不思議な刑罰だな、不思議な過ちだな、続けなくちゃいけない、ひょっとしてもうすんだのかな、ひょっとして彼らはもうおれのことをいっちまったのかな、ひょっとして彼らはおれをおれの物語の入り口まで運んでくれたのかな、扉の前まで、扉をあければおれの物語、だとすれば驚きだな、もし扉が開いたら、そうしたらそれはおれなんだ、沈黙が来るんだ、その場ですぐに、わからん、絶対にわかるはずがあるもんか、沈黙のなかにいてはわからないよ、続けなくちゃいけない、続けよう。(最後)
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by tummycat | 2010-07-07 16:26