本を読んだり、読まなかったり

544 大江健三郎 『水死』 講談社

『アナベル・リイ』でちょっとイヤになってしまっていた大江健三郎。もうしばらくは近寄らないつもりでいたのに、事情により最新作を読むことになった。読み始めると意外にも面白い。特に前半はぐいぐい読まされた。特に漱石『こころ』を観客参加型の演劇で取り上げたところは面白かった。後半はいつものパターンに近くなって失速したと感じたが、エンディングでまた盛り返す。

これまでの作品と似ているのだが微妙に違うのは、作者が読者に対してわりと親切なことだ。『こころ』の遺書にあった「明治の精神」という言葉から「昭和の精神」を出して、それには戦前と戦後のふたつがあると説明しているところなど、今までにないわかりやすさだ。主人公の父親(そしてその弟子である大黄)が戦前の昭和精神で、ウナイコという女性が戦後の昭和精神ということか。国家が特に教育を通して人間に傷を与えるのだが、それを強姦という行為で象徴している。(強姦に象徴的な意味を与えるのがわたしは不愉快だった。クッツェの『恥辱』と同じく。)

もうひとつ親切だと思ったのは、女性対男性の構図の提示。これまでの作品にもたっぷりと現れていたけれど、この作品では「女が男より賢明である」と明示してあるところ。曰く、長江父よりも長江母が賢く、長江よりも彼の妹アサの方が賢い。

「言葉」の扱いが気になった。この人の作品には出身地の伝承がしきりに出るが、伝承とは基本的に話し言葉である。過去の大江作品では母親や祖母が主人公に話して聞かせた。主人公はそれを取り入れて本にしてきた。ここまでは伝承=女性の言葉、書いたもの=男性のことばという、従来理解されている図式だった。『水死』ではまず本を書くための資料(男によって書かれた言葉)があるはずだったカバンを開けてみると中身が殆どなかった。それに対して今は女性たちが進んで言葉を書こうとしている。主人公が手書きでカードに書いたものを娘がタイプして父の妹に渡す。映画や戯曲も声を使うものの、同時にスクリプトがあるから半分書き言葉なのだが、これを中心に進めるのも女性たちである。(ここでブラム・ストーカーの『ドラキュラ』のことも思い出した。あそこでも中心になって伝承を言葉で記録しよう、声を録音しようとするのは女性なのである。)どうして逆転しているのだろう。

『こころ』の引用はただ「明治の精神」を出すためだけなんだろうか。『こころ』が謎が多い作品であること、批評も多岐にわたることを承知して使っているのだろうか。昭和の精神がふたつあったように、漱石にとっての「明治の精神」にも二重性があったことを意識しているのか。

最後のシーンはリアリズム小説として読むと大変におかしい。長江とあかりは都合よく殺人に気づかず熟睡しているし、途中で部屋をのぞいたりっちゃんも鈍感すぎる。大黄にピストルで小河を撃たせたのは眠っている長江の意識だったみたい。そしてそもそも長江とあかりを高知に送ったのは病室で寝ている夫人なのである。遠くにいる人、眠っている人の深層意識が起きて活動している人間たちを動かしている。いずれにしても、これまでの老人3部作では老人たちの首都爆破計画やデモ行進が荒唐無稽なのにげんなりしたが、『水死』ではついに人を殺したというところがこれまでと決定的に違っているし、しかもこの殺人には説得力があるのだ。


追記 (8/17) :そもそもの話のきっかけはサイードの形見の楽譜に息子のあかりが鉛筆でなくボールペンで書き込みをしてしまったということだった。鉛筆で書いていたあかりにボールペンを渡したのは傍にいたおせっかいな中年女性だった。これも「女が書く」話なんだなぁと後で思った。
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by tummycat | 2010-08-13 07:28