本を読んだり、読まなかったり

558 ロラン・バルト 『明るい部屋』  花輪光訳  みすず書房

学部のときに初めて読んだのだが、そのときは雑に読んでしまってあまり印象に残らなかった。今回は真剣に読んだ。2800円という微妙に高い値段であったためにしばらく躊躇したのだが、買うべきものは買わなくちゃね。

ソンタグの写真論もよかったが、この本は論の質が全く違う。バルトが詩を書かない人だということをつくづく残念に思った。「平板な死」の章は圧巻だった。

以下は自分のための抜き書き。


「写真」とは、「ほら」、「ね」、「これですよ」を交互に繰り返す、一種の歌にほかならない。「写真」は何か目の前にあるものを指さすのであって、そうした純粋に指呼的な言語活動の域を脱することができない。10

あたかも「写真」は、つねにその指向対象とともにあり、両者は、流動するこの世界のまっただなかで、愛や死がもたらすのと同じ不動の状態に陥ってしまったかのようである。11

私のイメージと決して一致しないのは、<自我>の方なのである。というのも、イメージの方は、重苦しく、不動で、頑固である。(そのため社会はイメージのほうを信用する)が、<自我>のほうは、軽快で、分裂し、分散していて、まるでもぐり人形のように、私という容器のなかをたえず動きまわり、同じ場所にとどまっていないからである。... イメージの重圧を取り除いてくれるのは、愛、極度の愛なのである。)20-21

というのも「写真」は自分自身が他者として出現すること、自己同一性の意識がよじれた形で分裂することを意味するからである。また、それよりもさらに不思議なことは、人々が分身の幻想についてしきりに語ったのは、むしろ「写真」が出現する以前のことだった、という点である。自己像幻視は自覚的幻覚症のひとつとされるが、これは何世紀にもわたって大きな神話的テーマをなしていた。しかし今日われわれは、「写真」の奥にひそんでいる狂気を、あたかも抑圧しているかのように見える。「写真」が受け継いだ神話的遺産は、印画紙上の<私>を見たとき私が襲われるあのかすかな不安によって、わずかに思いおこされるだけである。22

私は自分自身を模倣してやまないのである。だからこそ、写真を撮らせる(または取られる)たびに、必ずそれが本当の自分ではないという感じ、ときには騙されたという感じが心をかすめるのだ。23

予想される「写真」の本質は<パトス的なもの>と切り離すことができなかった。「写真」は、最初に見たときから、<パトス的なもの>によって成り立っているのである。私は、息子を写真に撮ることができるというただそれだけの理由から写真に興味を持つようになった友人に似ていた。「観客」としての私は、ただ<感情>によってしか「写真」に関心を寄せなかった。私は「写真」をひとつの問題(ひとつの主題)としてではなく、心の傷のようなものとして掘り下げたいと思っていた。私は見る、私は感ずる、ゆえに私は気づき、見つめ、考えるのである。34

これとは逆にPunctumの読み取り(もしこういってよかれば先のとがった写真の読み取り)は、完結で、活発で、野獣のようにひきしまっている。(中略)「写真」は俳句に近いものになる。なぜなら俳句の表記もまた展開しえないものだからである。そこにはすべてが与えられていて修辞学的な拡大の要求やさらにはその可能性さえ生じることがない。写真と俳句のどちらについても、激しい不動の状態ということができるであろう。63

Studium はつねにコード化されているがPunctumはそうではない。64

カフカは微笑してこう答えたという。「いろいろなものを写真に撮るのはそれを精神から追い払うためだ」と。67

写真は動かない映像として定義されるが、それは単に、写真に写っている人物たちが動かないということを意味するだけではない。彼らが外に出てこないということも意味するのだ。彼らは蝶のように麻酔をかけられ、そこに固定されているのである。69

思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも耐えがたい特徴のひとつなのである。75

このように、われわれが生まれる少し前に生きていたある人間の人生は、その特殊性のうちに「歴史」そのものを、「歴史」の隔離する作用を含んでいるのである。歴史とはヒステリーのようなものである。誰かに見られていなければ、成り立たない。78

ニーチェの警句。「迷路の人間は決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ」88

家族というものを、もっぱら拘束と儀式だけで成り立っているかのように扱う、あの科学的態度はどうにも我慢ならなかった。つまり、家族は直接的な帰属集団としてコード化されるか、または葛藤と抑圧の結節点と見なされるのだ。われわれの学者たちは、<互いに愛し合う>家族もいるということが想像できないかのようである。90

それゆえ、写真のノエマの名はつぎのようなものであろう。すなわち、<それは=かつて=あった>、あるいは「手に負えないもの」である。。(中略)それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた、がしかし、すでによそに移され相異している。94

ただし死体を写した場合は別である。というよりも、その場合、写真が恐ろしいものとなるのは、いわば死体が死体として生きている、ということを写真が証明するからである。つまりそれは、死んでしまったものの生きている映像なのである。それというのも、写真の不動状態は、いわば「現実のもの」と「生きているもの」という二つの観念の倒錯的な混同から生じた結果だからである。97

写真はまさにこの点で私を驚かせ、私に根源的な問いかけをおこなわせる。いったいなぜ、私はいま、ここに生きているのか?と。104

写真はもはやないもののことを(必ずしも)告げはしないが、しかしかつてあったもののことだけは確実に告げる。105

重要なのは、写真がある事実確認能力をもっているということであり、写真の事実確認性は対象そのものにかかわるのではなく、時間にかかわるということである。109

映画の世界は現実の世界と同じく、つぎのような予測によって支えられている。すなわち<経験の流れはたえず同じ構成様式に従って過ぎ去っていくだろう>ということ。ところが写真はその構成様式を断ち切ってしまう。(写真の驚きはここから来る。)写真には未来がないのだ。(写真の悲壮さやメランコリーはここから来る。)110

写真においては、時間の不動化は必ずある極端な奇異なやり方でおこなわれる。時間が堰き止められてしまうのだ。写真は<現代的>なものであり、われわれのもっとも今日的な日常生活にとけこんでいるが、そうはいっても写真のうちにはいわば時代遅れの謎めいた点、不思議な停滞、一時停止という観念の本質そのものが含まれているのである。112

写真は思い出を妨害し、すぐに反=思い出となる。113

仮に死がもはや宗教的なもののなかに存在しないとしたら、「死」はほかの場所に存在するのでなければならない。その場所というのが、おそらく生を保存しようとして死を生み出す写真映像の中なのである。115

写真とともにわれわれは「平板な死」の時代に入ったのである。(中略)もっとも愛する人の死について何も言えないということ、その人の写真について何も言えないということ、写真を見ても決してそれを掘り下げたり変換したりすることができないということ。115

古代社会は、生の代理物である思い出が永遠に残るように、また少なくとも「死」を記念する事物そのものだけは滅びないように工夫した。それが「記念建造物」であった。しかし近代社会は「記念建造物」を廃止して、死すべきものである写真を<かつてあったもの>の普通の、いわば自然な証人としたのである。逆説的なことに、歴史と写真は同じ19世紀に考え出された。しかし歴史は実証的な手続きによってつくりあげられた記憶であり、神話的な時間を廃棄する純粋な知的言説である。他方、写真は確実だがしかし消えやすい証言である。その結果、今日われわれ人類が向かいつつあるのは、どう見てもつぎのような無力な状態である。すなわち、持続を感情的、象徴的に把握することがやがてできなくなるということ。写真の時代は、革命の、異議申し立ての、テロ行為の、爆発の時代、要するに我慢しない時代、成熟を拒否するあらゆるものの時代でもあるのだ。―そしておそらく<それはかつてあった>という驚きもまた消え去ってゆくのであろう。いや、それはすでに消え去ってしまったのだ。私は、なぜか自分にもわからないが、その驚きの最後の証人の一人(「反時代的なもの」の証人)であり、私のこの書物はその驚きの古風な名残なのである。116-7

(歴史的な写真の場合は)時間の圧縮がおこなわれ、それはすでに死んでしまった、と、それはこれから死ぬ、とが一つになっているのだ。119

公表された写真を読み取るときも、結局つねに私的な読み取りが行われているのだ。121

写真は誰かに似ているが、ただ写された人間にだけは似ていないのだ。127

写真のそのような明白さは狂気の姉妹ともなりうるものである。写真の明白さは過度であり、誇張されている。写真はいわば、そこに移っているものの姿を誇張するのではなく(事実はその正反対である)、その存在そのものを誇張するのである。現象学者のいうところによれば、イメージとは対象の虚無である。ところで、私が写真において措定するのは、単に対象の不在だけではない。それと同時に、それと並んで、その対象がたしかに存在したということ、その対象が写真に写っているその場所にあったということをも措定する。ここにこそ狂気があるのだ。というのも、今日まで、他のいかなる表象=再現物も、何らかの仲介物によらないかぎり、事物の過去を私に保証することはできなかったのだが、しかし写真の場合、私の確信は無媒介的(直接的)であり、この世の誰もその確信を私に捨てさせることはできないからである。そこで写真は私にとって、ある奇妙な媒体となり、新しい形の幻覚となる。それは近くのレベルでは虚偽であるが、時間のレベルでは真実である。写真はいわば、穏やかなつつましい、分裂した幻覚である(一方においては、<それはそこにない>が、しかし他方においては、<それは慥かにそこにあった>)。写真は現実を摺り写しにした狂気の映像なのである。140

そのレアリスムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始原的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものを思いおこさせるなら、写真は狂気となる。つまりそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、私は本書を終えるにあたり、これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。145
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by tummycat | 2010-10-15 17:39