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594 泉鏡花 『高野聖・眉かくしの霊』 岩波文庫

どちらも信州の山奥での超現実的なできごとを描いた中編小説で、妖しい美しさ印象的だが、それだけの話ではない。そこには日本の<土地>の力が描かれており、作者は近代化をめざしてひた走る日本へ警告を発していると思う。

『高野聖』の冒頭は、「参謀本部編纂の地図をまた繰開いて見るでもなかろう、と思ったけれど […] 引張り出した」で始まっている。なぜその地図が「参謀本部」が作ったものとわざわざ断っているのか。主人公の僧がこの地図を見るのは、旧道に入ってしまって少しした頃だ。地図を見ると「何やっぱり道は同一で聞いたにも見たのにも変りはない、旧道は此方に相違はないから心遣りにも何にもならず、固より歴とした図面というて、描いてある道は唯栗の毬の上へ赤い筋が引張ってあるばかり」(23)なのだ。ここでは目の前のたいへんな道とそれが地図でどれほど簡単に表わされているかのギャップが強調されている。しかも地図はときの軍部が作ったものだ。シェイクスピアの『リア王』でも、権力者の王が地図にした自分の領土をいとも簡単に分割して娘達に分け与えるが、その後リアは嵐のなか現実の土地の上をまるで頼りない虫のように彷徨うことになる。権力者は地図を作って土地を管理したつもりになるけれど、実際の土地の力はそんな地図には現れないのだ。

僧が薬売りに出会うあたりでは恐ろしい悪い病がはやっていて、小川の水も飲めない。僧は病を恐れて水を飲まず、薬売りは薬をのめば大丈夫だと僧を笑うのだが、この薬売りは近代化の象徴のように思える。(このあたりは原発事故後の日本みたい。)

 ところで、主人公が森の中に入ってみると恐ろしい女がいて、捉えられそうになるが命からがら逃げ出す、というのは世界のいろんな土地にある話だが、『高野聖』のこの女は単に化け物的なのではなく、もとは人を救おうとしていた点が違う。つまり人間への愛が土地の奥深いところにあるわけだ。また僧の方も私利私欲からとか不注意からではなく、薬売りを助ける目的のために旧道に入る。一見奇譚風な内容なのにこのように人への愛が書かれているところも、作者がこの小説で妖気的な魅力に溢れる不思議さだけを描こうとしたのではないとわたしが思う所以だ。日本人が日本の土地が持つ力を忘れかけているために、もともと土地が持っていた人間への愛が歪み、化け物化していると作者は言っているのではないか。

「眉かくしの霊」の方は、妖気的な美が更に前面に押し出されている。こちらは最初から最後まで食べ物の話だ。膝栗毛の貧しい食べ物のエピソードから始まり、主人公が奈良井宿で思いがけない美味に出会い、つぐみ料理を所望する話になる。そこから広がる話はやがてその宿にかつて泊まった女が動物に間違われて銃で撃たれて死ぬ話までつながっていく。土地は食べ物を産みだし、その食べ物を人間は食べて生きるのだが、ときにはかすみ網で野鳥を捕るという残酷な方法も取る。食べ物を介する土地と人間の関係は容易なものではない。人間がものを食べるという行為は土地にとって破壊的でもあり、それをもっと認識すべきだと言われている気がした。

途中、宿の料理人と女中の会話に木曽節の歌詞が出る。「木曽へ木曽へと積み出す米は伊那・高遠の余り米」という歌詞があり、これは伊那・高遠の人間が歌う。逆に木曽の人間は、「伊那や高遠へ積み出す米はみんな木曽路の余り米」と歌うのだそうだ。短い小説の中でこういう歌詞が紹介されているのも面白い。伊那・高遠も木曽も深い山に囲まれて、むかしは米はあまり取れなかったはずだ。
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by tummycat | 2011-05-15 16:53