本を読んだり、読まなかったり

267 多和田葉子 「エクソフォニー 母語の外へ出る旅」 岩波書店

これはとびきりいい本です。言葉というものがどんなに生き生きした夢のあるものかが
伝わってきて、読んでいてワクワクする。「エクソフォニー」とは母語の外に出た状態
のことらしい。翻訳・通訳など外国語と日本語の狭間で仕事をする人はもちろん
だけれど、多少とも言葉について考えたことのある人ならこの本を非常に面白いと
感じるだろう。そういう人たちにお勧め。

「昔なら、数年ごとに住む場所を変えるような人間は「どこにも場所がない」
「どこにも所属しない」「流れ者」などと言われ、同情を呼び起こした。今の時代は
人間が移動している方が普通になってきた。どこにも居場所がないのではなく、
どこへ行っても深く眠れる厚いまぶたと、いろいろの味の分かる舌と、どこへ行っても
焦点を合わせることのできる複眼を持つことの方が大切なのではないか。」p28

「わたしは境界を越えたいのではなくて、境界の住人になりたいのだ、とも思った。
だから、境界を実感できる躊躇いの瞬間に言葉そのもの以上に何か重要なものを
感じる。」p35

なまることの重要さについて。「なまりをなくすことは語学の目的ではない。むしろ、
なまりの大切さを視界から失わないようにすることの方が大切かもしれない。」
「発音のみならず、思想のナマリがなければ、その人はフランスの勉強をする理由は
ほとんどありません。そしてまた、なまることがささやかながら世界の思想と人類の
文化に貢献する方法なのです」(田中克彦「クレオール語と日本語」からの引用。p77

「しかし小さな言語で書かれた文学はほとんどの人には読めないわけだから、
多くの人の読める言語に訳されることになる。すると、滅びかけた語彙、
思考のリズム、語り口、映像、神話などが、翻訳という形で大きな言語の中に
「亡命」し、そこに、ずれ、ゆがみ、戸惑い、揺れ、などを引き起こすことになる。
これほど文学にとって刺激的なことはない。だから翻訳文学は大きな言語を
変身させる役割も果たす。」p89

誤訳について。1ページに1個や2個は必ず誤訳があるものだそうだ。
(沼野充義「W文学の世紀へ」による)
「この世界のほとんどのテキストがまだ訳されていないか、すでに誤訳されているか
どちらかなのだということになる。(中略)誤訳という荷物を背負わずに旅はできない。
しかし、誤訳と正しい訳が、嘘と真実のように対立しているのではなく、両方とも「訳」で
あり、旅であり、大袈裟に言えば、色合いが違うだけなのかもしれない。」p129

「額に汗して働く心の純粋な庶民」というだまし絵に関連する純文学叩きについて。
「マスコミの一部が「読者に奉仕しない」作家や「働く普通の人間の姿を描けない作家」
を叩く。(中略)「庶民の敵」として叩く。(中略)それなのに日本では、みんなの心の中
に宿った秘密警察が、散文の実験を禁止するのである。」p134

その他、著者が様々な国の文学のワークショップでやった実験がたいへん刺激的だ。
言葉って、わたしたちが思うよりもずっと豊かな可能性を持っているのだ。
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by tummycat | 2006-08-08 16:36 | た行