本を読んだり、読まなかったり

279 大江健三郎 「燃えあがる緑の木」 新潮文庫

三部作。長かった。まだ感想をまとめられないけれど、とりあえず思いついたことをメモ書きしておく。

この小説のテーマは「宗教」とか「信仰」なのかもしれないけれど、作者は極力そういう言葉を使わないで「魂のことをする」と表現している。主人公は2代目ギー兄さんなのだけれど、これは作者自身も含めて複数の人がまざっている人間のようだ。「救い主」であるにはあまりに気弱で正直な人。

「魂のことをする」のは人間ひとりひとりがする行為なのに、それがだんだん組織になっていく。最後はまた組織を解消してひとりに戻るのだが。大江健三郎の中にもひとりで魂のことをしたいと願う面がありながら、なぜか他人と連帯し組織化していく面があるような気がする。この人は後者も決して嫌いではないのだろう。連帯については最近の三部作にもよく出ている。なぜ連帯するのだろう。連帯したいのかしたくないのか。するべきだと思っているのかよく分からない。

読書ということもこの小説以降の大きいテーマのように思う。大江にとって読書というのは、普通の庶民の愉しみのための読書とは全く違う。魂のことに向き合う作業なのだ。だから最新作で「さようなら、私の本よ!」との題名になっているのは普通に想像するよりもはるかに重大なことなのだ。(それにしてもこの小説でイエイツその他の話が出るのだけれど、「こんな風にしっかり読まないといけないなぁ」と反省してしまう。。)

大江健三郎とイエイツの共通点がこの頃非常に気になる。
簡単にいうと自分の神話化。イエイツは最後の最後まで自分の初期中期の作品の手直しをしたり、最新の散文で旧作について言及したりしていた。また読者は自分の作品を初期からすべて読んでおり、自分の私生活のできごとについても承知しているということを前提にしている。自分の先祖や父親や友人たちをギリシャの神にも近いような尊い存在として書いている。大江についても、最近のいくつかの小説では、彼の旧作の長々とした引用が実に多い。また彼の私生活(息子さんのこと、伊丹十三のこと、など)を読者が知っているという前提で書いている。そして、総領事など親戚の人間を特別なエリートとして書いているし、てんかんという病気さえ神がかり的な病気のように描く。更には自分の故郷の愛媛の山村を、選ばれた小宇宙と考えている。このように自分を神話化するのはなぜなのだろう?

そしてずっと疑問に思ってるのは大江健三郎のあのメガネなんけど。あれってイエイツに似てるよねぇ。いまどきああいうデザインのメガネのフレームはなかなか入手しにくいと思うのだけど。

最後の疑問。大江健三郎はいまや戦後民主主義のシンボルとなっている人だけれど、イエイツは民主主義など支持していないし、それどころか最晩年には人種差別的な過激な文章を書いている人だ。大江はイエイツのそういう面も承知して、あのように敬愛しているのだろうか。
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by tummycat | 2006-11-25 11:59 | あ行