本を読んだり、読まなかったり
2013-12-31T16:35:34+09:00
tummycat
Excite Blog
これにて終了!
http://tummycat.exblog.jp/21515314/
2013-12-31T16:35:39+09:00
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2003年から10年間も続けたのだからもうちょっとがんばろうと思っていたのですが、やっぱり無理かなぁと。残念ながらここでいったん終わることにします。また環境が変われば再開することもあるかもしれません。そのときはまた001から始めます。
2003年にこのブログを始めたのは、ちょっとした問題を抱えていてしんどかったから。読んだ本を数えていき記録することで気持ちを強く持とうとしていたと思います。それから10年たち、いろんなことが変わりました。これからもどんどん変化しそうで、人生ってわからないもんだなぁと思っています。
これまで読んでくださったみなさん、どうもありがとうございました。
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698 井野瀬久美恵 『大英帝国はミュージックホールから』 朝日選書
http://tummycat.exblog.jp/21322896/
2013-11-15T10:00:00+09:00
2013-11-15T15:59:36+09:00
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697 中沢新一 『精霊の王』 講談社
http://tummycat.exblog.jp/21292038/
2013-11-07T15:29:35+09:00
2013-11-07T15:29:14+09:00
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と思いながらも、気を取り直して書くのである。先日の明治大学での講演で話題になっていた本。非常に面白いのだが、後半はあまりに宗教学的になってついていけなかった。
日本という国家が成立する前に日本中にあった「古層の神」の話だ。「宿神」「後戸の神」、でもある。シュクジ、シュクジン、シャグジ、ミシャグジなど。東京の「石神井」もそのひとつ。
芸能の神、特に猿楽の「翁」(能の曲目の中でも別格)はこの神なのだそう。この神の呼び名は日本中にあるが、「さ」と「く」の音を持つのが特徴で、これは境目を意味している。たとえば放浪の芸能者は定住せず、町のはじや崖の近くなどに住んでいた。それで彼らは「さ・く」のように呼ばれ、彼らの神はサク神になったのではないか。後ろ戸は、舞台の下、大きい農家の奥の間など。座敷童があらわれる。
国家神道の時代になってからはこの神は新しい神社の陰に追いやられてしまった。
折口信夫は「まれびと」と呼んだ。金春禅竹は能の「翁」は宿神だと考えた。また在原業平も宿神であったとのこと。
蹴鞠の話が面白かった。蹴鞠は鞠が地面に落ちないように蹴り続ける遊びだが、これは天と地の距離が離れすぎてしまって、宇宙のバランスが崩れてしまっているからだと考えた人々が、鞠を空中に蹴り上げる儀礼を行うことによって、天と地の間に媒介を挿入してバランスを取り戻したのだとのこと。蹴鞠の名人の前に、子供のような、猿のような、「鞠の精」があらわれる話がとても良かった。
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696 関川夏央 『昭和三十年代演習』 岩波書店
http://tummycat.exblog.jp/21078838/
2013-09-17T11:37:00+09:00
2013-09-23T09:39:40+09:00
2013-09-17T11:37:05+09:00
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この本は昭和30年代を描いた小説や映画について論じているもの。語り口調で書かれていて、途中には編集者との対話も入る。読んでいて意味を取りづらいところもあって、もうちょっと丁寧に書直してほしかったという気がした。でも内容はたいへん面白い。昭和30年代というのはわたし自身の子供時代なので。
面白かった点を以下にメモ。
*昭和30年代は明るかったという記憶があるが、記憶は作られる。戦争が終わったあと、戦争前の時代をなつかしむはずなのに、それは自主規制された。
*よく登場する空き地(コンクリート管があったり、子供が遊んだ)は空襲の焼け跡の名残り。
*フォーク・クルセダーズの「イムジン河」のレコードが発売禁止になったのは、朝鮮総連(当時は暴力的な圧力団体だった)がこの曲は北朝鮮で作られたと主張し、国名や作詞作曲者を明記せよと迫ったから。レコード会社は面倒を避けて発売禁止とし、放送局も放送を自粛した。
*戦前の鉄道運輸は戦後よりはるかに国際的だった。東京発下関行の寝台特急は下関から関釜連絡線に接続し、朝鉄、満鉄、シベリア鉄道と連絡して、ベルリン、パリ、ロンドンと結んでいた。
*昭和30年代の子供たちは「世界再参加」を痛切に望んでいた。東京五輪を歓迎した。【ここがわからない。子供がそんな意識をするものだろうか。わたしはしなかったです】
*昭和38年11月23日、アメリカから史上初の衛星中継テレビ放送が行われる予定だった。テキサス州遊説中のケネディ大統領が宇宙中継で日本にメッセージを送ることになっていた。最初に出たのはボール紙にマジックで書かれたメッセージだった。「大統領が狙撃されて死亡した」とのこと。
*大ヒットした「愛と死をみつめて」の原作は、同志社の社会学科の女子学生と中央大学商学部の男子学生の往復書簡。女子学生が亡くなった翌月(!)に男子学生が手紙類を出版者に持ち込んだ。それを読むと、女子学生は母のように自分の死後の男子学生のことを心配し、励ましていた。この本が流行ったのは、単に難病ものだったからではなく、女性が中心、母親が優先という日本文化の本質的なものが出て来たからではないか。
*北朝鮮は一時は「地上の楽園」だと噂されて在日の人は喜んで帰国した。しかし行ってみたら食糧もなく着るものもなくて、大変な楽園だった。帰国者たちが日本にいる知合いに「こちらに来るな」と連絡したのだが、検閲があるので文面を工夫して知らせた。まもなく帰国希望者はいなくなった。
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695 水村美苗 『本格小説』 新潮社
http://tummycat.exblog.jp/20949852/
2013-08-19T07:33:00+09:00
2013-08-19T07:39:42+09:00
2013-08-19T07:33:02+09:00
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だけど、単純に『嵐が丘』の時代と舞台を現代の日本にしてみたというものではない。日本とアメリカの中間で青春期を過ごした作者の屈折や、日本文学に対する疑問や、戦後日本を描くという気合いで、結果として『嵐が丘』よりもずっと重厚な小説になっている。そのぶん、二人の恋愛の重さは相対的に軽くなってる気がするけど、それは仕方ないよね。でも、主役のよう子と太郎はキャサリンとヒースクリッフに十分似て造形されていて、その技術はすごいと思う。読んでいて、「ああ、これはあの場面!」「これはあのときの台詞!」と、『嵐が丘』ファンとしてはその都度思い出してワクワクする。元ネタの使い方がうまい。
『嵐が丘』そのままの筋にしようと思えばできたのに、作者はわざといくつかの大きい変更をしている。一番大きい違いは、母娘2代の話にせず、よう子と太郎の話だけで終えたこと。それから、ジェンダーを一部変えたこと。ヒンドリーの代わりに常さん、ヒースクリッフを拾ってきた祖父のかわりに祖母、という風に。これはイギリスと日本の違いから自然にそうなったのかとも思うが、他にも全体的に女系を強調しているので、作者には女性を描くという意図があるのだろう。それから非常に気になったのが、「3人」がたくさん出てくることだ。中心になる「よう子、太郎、富美」の3人をはじめ、「よう子、太郎、雅之」、「春絵、夏絵、冬絵」、いとこたちなど実に多い。3人にする必要がないところでも執拗に3人組を作っている。
この「3」は大事なポイントのような気がするのだが、どういう意図だったんだろう。『嵐が丘』ではキャサリンとヒースクリッフが絶対的カップルでエドガーは邪魔者だったのに、『本格小説』では雅之を含めた3人があり得ないような良い関係となっている。作者にとってひょっとしたらこういう三角関係が理想なのか。そうするとあちこちに散りばめられた「3人」もそのような肯定的な意味があるのか。「3」は昔から安定した、美しい数字だし。…と、まぁ読了直後のいまはそんな風に思うけれど、もうちょっと考えてみたい。
もうひとつ面白いのは、『本格小説』の方はあちこちにわざとらしい写真が挿入されていることだ。古い洋館とか、河とか、道路とか。どれも人間が写っておらず、対象を対象らしくはっきりと写しているのが特徴である。いわゆる雰囲気のある写真ではなく、「この対象を見せるのだ」という意志の感じられる写真。そして、その写真があることで余計に中身のフィクション性が強まる気がする。そういえば、序文に「東太郎は実名だ」と言ったり、作者自身の話をいかにも実話ぽく語ったりするのも、このわざとらしい写真に呼応するのかな。個人的には、最初の写真が出て来た時点で、「ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』みたい!」と思った。
戦後日本を描いたという点でもとても面白かった。自分が生まれた年(昭和31年)は「もう戦後ではない」と言われた年だったと知る。また、ひとむかし前の海外駐在員の世界のディテールもリアルだった。現地採用の日本人との微妙な差別感、たしかにあったよなぁ。
実をいうと、水村美苗はずっと苦手意識があって読もうと思わなかったのだ。以前彼女が著者近影で使っていた、小首を可愛らしくかしげた写真が嫌いだったから。でも最近の写真はわりといい感じで婆さん(ちょっとオニババ的雰囲気もある)になっているので好感が持てる。別のものも読んでみたい。
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694 吉田喜重 『小津安二郎の反映画』 岩波書店
http://tummycat.exblog.jp/20904113/
2013-08-08T07:50:00+09:00
2013-08-08T08:15:58+09:00
2013-08-08T07:49:55+09:00
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小津映画についての評論と聞いて読んだのだが、筆者は小津と面識のある映画監督で、小津のことを非常に敬愛していて、その思いが随所ににじみ出ているという点でかなりユニークな評論だった。なにしろ「小津」ではなく「小津さん」といちいち呼ぶのだ。「いかにも小津さんらしいとしか言いようのない○○」という表現が20回ぐらいも出る。「聖なる○○」という表現も頻出するが、いささか愛情過多な気がした。しかしこの本は小津映画の評論としては定評があるらしい。
わたしは小津安二郎の映画をそれほどたくさん見たわけではないし、おまけに似た題名が多いため、題名だけ聞いても中身がすぐ思い出せないので、この本を読みながらそれぞれの映画をもう一度見てみたい気持ちになった。繰返される同じ台詞が、繰り返されるたびに意味がずれていく、という分析には納得。それから<物>が登場人物を見ている(たとえば空気枕が、あるいは東京という街が、登場人物を見ている)という表現は新鮮に思った。また登場人物としての父と娘の関係だけでなく、俳優と俳優として見たりする解釈も面白かった。「晩春」はまだなのでぜひ見てみたい。能のシーンもあるらしいし。
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693 山田ズーニー 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房
http://tummycat.exblog.jp/20818564/
2013-07-19T14:05:00+09:00
2013-07-19T14:07:59+09:00
2013-07-19T14:05:41+09:00
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特に論文の執筆によく効きそうだ。論文を書いていると自分の眼、自分の考えにどうしても凝り固まってしまうから、それをできるだけ解きほぐして改良する必要があるのだが、案外むずかしい。この人が言うように、ある一つの対象についてたくさんの疑問文を並べてみるというのはいい方法だ。別の視点があることが分かってくるからだ。それと、当たり前のことだけれど、相手の立場を想像しながら書くということが大事。自分の論文を読まされる人(査読者とか!)の気持ちになって、その人が今まさに読んでいると想像しながら書くことが必要だ。それに気がつかされただけでわたしにとっては価値ある本だった。
論文の他にも、普通の会話にも役立つだろう。特に、「正論を言うと必ず相手は傷つく」ということなど目からウロコでした。正論とは危ないものなのだ。できれば懐にしまって出さない方がいい。
ところでなんで山田さんが「ズーニー」と名乗っているのかはこの本には書いてなかったけど、なんでだろう。ふざけた名前は、この人の言う「メディア力」(自分の発言を他人から肯定的に評価してもらう力)にとっては不利だと思うのだが。
それで山崎ナオコーラの小説も読んでみるかな。どうしようかな。
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692 ジョージ・ソーンダーズ 『短くて恐ろしいフィルの時代』 岸本佐知子訳 角川書店
http://tummycat.exblog.jp/20804200/
2013-07-16T10:06:36+09:00
2013-07-16T10:06:27+09:00
2013-07-16T10:06:27+09:00
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「国が小さい、というのはよくある話だが、<内ホーナー国>の小ささときたら、国民が一度に一人しか入れなくて、残りの六人は<内ホーナー国>を取り囲んでいる<外ホーナー国>の領土内に小さくなって立ち、自分の国に住む順番を待っていなければならないほどだった。」
と設定は寓話的なのだが、内容はどんどん政治的になっていく。オーウェルの『動物農場』を思い出す。<内ホーナー国>はユダヤ、<外ホーナー国>はドイツ、<大ケラー国>がアメリカというように(わたしには)思える。<大ケラー国>のコーヒーやクッキーが大好きで、毎日を楽しく暮らすのが好きというのが笑える。だから他所の国で問題が起きていると、彼ら自身が楽しくなくなるので出兵して解決しようとするのだ。最後は機械仕掛けの神が出るけれど、それで問題が解決するわけではないという暗示で終わる。
翻訳がリズミカルで面白くて最高。
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691 中野京子 『怖い絵』 朝日出版社
http://tummycat.exblog.jp/20788764/
2013-07-12T18:37:00+09:00
2013-07-12T18:39:54+09:00
2013-07-12T18:37:38+09:00
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ところで授業で取り上げられたのはジョルジョーネの『老婆の肖像』で、なぜ古今東西の男は若い女を讃える一方で老いた女を理不尽にさげすみ憎むのかという話である。
要するに老婆はおぞましく、そのおぞましい老婆が着飾るのは滑稽であり、見る者の優越感を煽った。声高に美を讃える時代だからこそ、醜かったり、老いたり、神体が不自由だったりする者を平気で笑えたのだろう。
……彼ら(男性)は老いへの恐怖を映し出す鏡として、嫌悪を込めて老婆を見る。つまり、「醜い老婆」とは、男性が自らの見に怒る老いを拒絶するための、まさにスケープゴート、生け贄の子羊なのだ。そして自分だけは決して老いないと信じる若い女性たちが、天につばすることと気づかず、それに追随した。
わたしもつねづねなぜ中年の男性が自分と同じ年代の女性を「オバハン」「ババア」と蔑むのか、不思議に思っていた。若い男性は中年女性をそんなに蔑まないのに(視野に入ってないんだろうけど)。著者のこの説には自然に納得できたのだった。
この本は第2弾、3弾があるようなので続けて読みたい。
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690 G. K. チェスタトン 『ブラウン神父の無心』 南條竹則、坂本あおい訳 ちくま文庫
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2013-07-03T08:48:00+09:00
2013-07-03T08:52:37+09:00
2013-07-03T08:48:43+09:00
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さて、チェスタトンは『木曜日だった男』が非常に好みだったので、これも楽しみにしていたが、期待どおりの変な推理小説だった。身体が非常に大きく、かつ身軽な男が出る『木曜日だった男』とは対照的に、今度は貧相で小柄な男が主人公で、これがブラウン神父である。ポワロよりも一段と冴えない男なのだ。
推理小説と探偵の関係って、考えてみれば面白いものだ。たとえばホームズの場合、彼が遭遇する犯罪はひょっとしたらホームズ自身の願望が作り出したものなのではという気がするのだが、ポワロだとポワロの願望ではないが、やはりポワロ自身と犯罪には何か関係があるのではないか。ブラウン神父もそうなのだ。探偵と犯罪の関係について誰か論じた人はいないかしらん。
とにかくブラウン神父の話はどれも面白かった。特に「青い十字架」と「秘密の庭」が好きだった。
「秘密の庭」では、ある私邸の庭に唐突に死体が見つかるのだが、その夜招待されていたブラウン神父と医者の二人が庭の死体のところに駆けつける。この場面が、フィリップ・ラーキンの "Days" という(意味がよくわからない、不思議な)詩を思い出させるものだった。ラーキンはブラウン神父を読んでいたのではと思うぐらい。
Days
What are days for?
Days are where we live.
They come, they wake us
Time and time over.
They are to be happy in:
Where can we live but days?
Ah, solving that question
Brings the priest and the doctor
In their long coats
Running over the fields.
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689 岡原正幸 『感情資本主義に生まれて』 慶応義塾大学教養研究センター選書
http://tummycat.exblog.jp/20592657/
2013-06-02T20:04:52+09:00
2013-06-02T20:05:28+09:00
2013-06-02T20:05:28+09:00
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そして、日本人はみんなおんなじような考え方をするなんていうのはウソであって、感情管理の仕方や度合いは社会の階層によって違うのだという指摘があった。ドキリとした。たとえば「つまらない勉強でも我慢してやり終える」というのはある階層の感情管理なのだ。
こんな時代だが、より良く生きるための提案を著者はしている。みんなが同じように感じるのが「感情共同体」だとしたら、そうではなくて、ひとりひとりの感情を知るところから始まる「感情公共性」を推奨しているのだ。(この用語はイマイチ分かりにくいと思う)
「理解できない、共感できない、むしろそれを知ることこそ感情公共性の芯となり、感情現象の異化をもたらす核になるのである。もちろんそのことは、相手の感情を冷たく突き放すことなんかではない。逆である。いつでも、この私自身に、他者がその感情を差し向けていると切実に思うことだ。それは僕の経験からして非常に困難なことなのだが、それでも「立ち会うこと」の本来の姿なのである」
全然うまくまとめられなかったけど、読んで良かったと思う、お勧めの本です。
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688 赤木明登 赤木智子 『うちの食器棚』 新潮社
http://tummycat.exblog.jp/20566399/
2013-05-28T20:15:00+09:00
2013-05-28T20:19:51+09:00
2013-05-28T20:15:29+09:00
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わたしは最近80年代に興味がある。この頃にいろんな社会変化が起きているからだ。80年代に起きた変化のコレクターになろうとしている。前回の『心理学化する社会』では、80年代には構内暴力がはびこり、また「自己臭」の悩みが増えたとのことだった。で、この本によると、80年代になって個人作家で生活食器を作る人があらわれはじめたのだそうだ。それ以前はオブジェ的なものだった。以来、ずっと現在まで多くの個人作家がふつうの食卓で使える普通の器を作りつづけている。流行ももちろんあって、たとえば2000年頃からは白い食器が風靡していく。これは今でもまだ続いているけれど。
というわけで、最近わたしも個人作家の器を買って使うようになっているので、興味深い情報がいろいろある本だったのだ。
(こちらのコーナー、学期中はなかなか更新できないなぁ。例年のことだけど。)
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687 斎藤環 『心理学化する社会』 PHP研究所
http://tummycat.exblog.jp/20519047/
2013-05-20T07:22:00+09:00
2013-05-20T08:49:08+09:00
2013-05-20T07:22:16+09:00
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*「障害」や「壮絶な人生」ばかりが注目される。「ふつう」であることはいまや「物語の空白地帯」。
*80年代は校内暴力がさかんで、これはカウンセリングにあまりなじまなかった。90年代後半になると問題は内向していじめや登校拒否になったのでスクールカウンセリングが導入された。
*事件が起きると心理学者がコメントするようになったのは宮崎勤事件から。それまでは「事件」「事実」にコメントしていたのに、犯罪者の心理が解釈され物語化されるようになった。
*レイモンド・ウィリアムズは社会の心理学化の傾向を「近代のイデオロギー」と呼んだ。
*原作をアニメ化するときの喜び。ある対象が複数の異なった媒体で表現されることはそれだけで快い。アニメが原作をトレースする喜び。媒介への欲望。ある対象を別の文脈に置き直したい。心理学はそういう文脈を与えてくれる。
*むかしは「赤面恐怖症」だったがその次は70年から80年代にかけて「自己臭症」になり、それも今は少なくなった。
*デーゲンはフロイトを「心理学の嘘」の家元とみなしている。
*家族からの虐待問題。訴訟までいかなくても親が糾弾され、家族関係に亀裂が走る例が数え切れないほど出て来た。糾弾運動の旗振り役になったのがセラピストたち。
*よく言われる「虐待の連鎖」は根拠がない。
*人々が求めているのは魅力的な「物語」である。「物語」を作らせたら精神分析はいまのところ最右翼。
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686 ガルシア=マルケス 『族長の秋』 集英社文庫
http://tummycat.exblog.jp/20422262/
2013-05-03T06:44:00+09:00
2013-05-03T08:58:56+09:00
2013-05-03T06:44:13+09:00
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それでも気分転換のためにちょっとずつでもいいから小説を読もうという気になった。わたしはマルケスとボルヘスをよく混同するので、その問題解決のためにマルケスとボルヘスをつづけて1冊ずつ読もうというわけ。まずはマルケス。始めはひどく読みにくくて、途中でやめるとどこまで読んでいたかが分からなくなり、適当にまた読み続けるのだが、結局どこで切ってもどこからつづけてもいいような、ぐるぐるととぐろを巻いているような物語だ。冒頭で大統領府の様子が描かれるが、建物の中がめちゃくちゃで牛が勝手にうろついている、というのが気に入った。(集英社文庫の表紙は牛。)
マルケスはコロンビアの作家だが、こういう「独裁者小説」を書くのはやっぱりラテンアメリカの作家だからなんだろう。そして独裁者というものはたいていうんざりするほど長く権力の座に居座るから、こういう長い長い物語になってしまう。主人公の大統領は誰も本当の年齢がわからない、超長寿じいさんなのである。それにしてもマザコンで子供っぽいじいさんの様子が妙にリアリティがある。彼の妻が最初は善良であったのに、どんどん傲慢になっていくところなども。最後の方で民間人でダンディな男が残虐の限りを尽くして人を殺していく、そのあたりも迫力だ。そういうもんなのかもねーと思わせる。どれもこれも、とんでもなくあり得ない話なのだが、同時に非常にリアリティがあるのだ。面白かった。次はボルヘス。
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685 川端康雄 『葉蘭をめぐる冒険:イギリス文化・文学論』 みすず書房
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2013-04-07T09:10:00+09:00
2013-04-07T09:11:34+09:00
2013-04-07T09:10:57+09:00
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個人的に面白かったのは、バーン=ジョーンズとラスキンについてのもの。バーン=ジョーンズはミケランジェロの彫刻にインスパイアされ、自分でも螺旋や蛇状の構図で描くようになったとのこと。そしてそれをマニエリスムだと認識していたという。それで思い出したのは、以前読んだブラウニングの「アンドレア・デル・サルト」という詩。この詩でアンドレア・デル・サルトはダ・ビンチに劣る凡才として描かれているが、よく読むと彼の画風ははっきりとマニエリスムである。ブラウニングは本当にデル・サルトをつまらない凡才として書いたのだろうか。それとも凡才だと見えて実はマニエリスムという新しい芸術の画家であるという評価だったのだろうか。後者の方がずっとひねりがあって面白いと思う。ビクトリア朝にマニエリスムの再評価があったというのなら、後者の解釈が成り立ちそうだ。
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